1998年6月 No.25
 
PRTRとダイオキシン問題

  化学物質の総合的リスク削減と、開かれた政策決定の実現に向けて

 

 横浜国立大学工学部教授・工学博士 浦野 紘平

●1,770万点にも達する化学物質

 
    今日は私が研究しているPRTR(環境汚染物質排出・移動登録)の視点から、ダイオキシンに限らず、化学物質の総合安全管理の在り方という問題についてお話ししてみたいと思います。
  現代の文明社会は化学物質を大量に消費することで成り立ってきました。米化学界のケミカル・アブストラクト・サービスに登録されている化学物質の数は、現在約1,770万点にも達しており、しかも一方ではダイオキシン類とか、自動車の排気ガスや塩素消毒などによって生成する非意図的生産物のように、有害性が十分明確にされていない物質も増えてきています。
  PRTRとは、こうした状況に対応して、発ガン性や生殖毒性、慢性毒性のリスクの高いと思われる化学物質について、大気、水域、土壌中への排出量と、廃棄物として委託処理される場合の移動量を測定し、化学物質の総合的なリスク低減を図ろうという手法で、1996年3月に経済協力開発機構(OECD)から加盟各国にその導入が勧告されています。
  これは92年の地球サミットで採択された『アジェンダ21』の第19章において「化学物質の安全管理」が謳われたことへの対応策のひとつとしてスタートしたもので、ISOの14000シリーズ(環境管理)などもその一連の動きの中に位置づけられます。
  日本でも現在、神奈川県と愛知県において計178物質/物質群を対象に、PRTRの本格導入へ向けたパイロット事業が進められ、5月1日には中間報告が発表されました。両県とも私がPRTR地域推進委員会の委員長を務めており、今年の8月までに最終報告のとりまとめを行う予定です。
 

●個別物質の規制で問題は解決しない

 
    つまり、今までのように、ひとつの物質、ひとつの環境媒体を個別に叩くだけでは有害物質問題の根本的な解決にはならないというのがPRTRの基本的な考え方と言えます。ダイオキシンの問題にしても、大気を規制することは大事ですが、魚からの摂取ということを考えれば、大気だけ規制すれば済むという問題ではありません。日本では依然として個別物質、個別媒体をモグラ叩き的に叩いている現状ですが、そうではなくて、総合的なリスク管理が必要なのです。
  それから、もうひとつPRTRの重要な点は、総合的なリスク低減のための意志決定、政策決定を利害関係者が全員で議論する「開かれた社会づくり」を基本目標としていることです。企業と国、自治体、さらにNGOや一般市民が、お互いを敵視したり怖がったりせずに、立場の違いを乗り越えてこの目的のために協力すること、そのための議論の場を設けることが必要です。これは日本に最も欠けていることだと思います。
  情報公開が進んでいるアメリカでも、化学物質の総合的なリスク削減と、利害関係者全員によって政策決定を行い、そして一層の情報公開が必要であるということが言われています。
  大統領の諮問委員会報告『環境リスク管理の新たな手法』では、「個別物質の個別媒体を規制・管理するだけでは問題は解決できない」という明確な方針転換が示される一方、これまでのように行政が単独で有害物の規制・管理を決めるのではなく、すべての利害関係者を加えて有害物のリスク管理を行うことの重要性が示されています。
  行政の一部局が政策決定するよりも、最初から利害関係者を加えて物事を決定したほうが、極端に走ることなく、時間的にも経済的にも有効であるということが分かってきたわけです。
 

●パニックを生む情報の秘匿

 
  以上のような視点からダイオキシンの問題を考えてみると、はっきりとひとつの方向が見えてきます。ダイオキシンは厨芥や家庭ごみなど、ごく普通の塩分を含むものを燃やしても発生するし、人類が火を使い始める以前から、山火事などでも生成したものと考えられます。
  つまり、「ダイオキシンは決してゼロになるものではない」ということが、この問題の前提として認識されなければなりません。
  現在のような一種のパニック状態の中では「絶対ゼロでなければならない」という極端な議論が盛んになりますが、大切なのは「ゼロか100か」「イエスかノーか」の選択ではなく、少しでも早くダイオキシンのリスクを減らして、より良い方向に進めていくという考え方です。「交通事故ゼロ宣言」といった運動スローガンは別として、ダイオキシンも塩素も完全にゼロにしようという議論はあまりに短絡的だと思います。
  では、少しでも早く良い方向に進めるにはどうすればいいのか。アプローチの方法にはいろいろあるでしょうが、ひとつ確実なことは情報公開が必要だということです。
  現在のダイオキシン問題の根本的な原因は、都市ごみの焼却から出ることが前から分かっていたにもかかわらず、その情報が仲間内で隠されて、きちっと公開されてこなかったことにあります。隠されていた情報が、ある時突然出てきたために人々はパニックに陥って「ゼロにしろ」という極端な議論が起こってきたのです。しかも、情報が隠されている間に何の対応もされてこなかったことが、結果的に余計おかしな状況を生んでしまったと言えます。
 

●“モグラ叩き”のダイオキシン対策

 
  ダイオキシンの発ガン性は非常に弱いのですが、一般の人々はダイオキシンというとすぐにガンを発想するし、マスコミも特定の地域で発ガン率が高いと「これはダイオキシンのせいだ」という一面的な報道をしがちです。
  ただ、マスコミの取り上げ方を一方的に批判することもできません。「中途半端なごみ焼却をしてその灰をいい加減に捨てることは危険だ」というマスコミの主張は間違っていないからです。その根拠として「死亡率がこうだ」という言い方をすることは科学的な論争ではないのであって、正しい意見と科学的でない見方が区別されずに結びついている点に問題があるのです。これも基本的には企業や行政の秘密主義のせいで正確な情報が流れていないためだと私は思います。
  不適切な燃焼をすればダイオキシン以外にもいろいろなわけのわからない有害物ができます。ですから、高い調査費用をかけてダイオキシンだけを叩いてもダメなので、もっと全体を見てトータルで最も環境負荷の少ない、リスクの少ない道を選ぶこと、そして、その情報がきちっと流れることが重要なのです。
  そうでないと、役所も業界も市民もマスコミも結局はモグラ叩きに終始して、小さなモグラを叩いたら逆にもっと大きなモグラが出てきてしまったということにもなりかねません。そうならないためには、オープンな情報公開に基づいて関係者全員が意見交換を行うことが必要です。
  それから、これも大切なことですが、市民の側も、ダイオキシンが増えた原因は大量消費社会の中で自分たちがやたらとごみを捨てるからだということを自覚して、ごみの量を減らす努力をしなければなりません。特にごみの増大で無理な焼却を強いられている古いタイプの小さなバッチ炉などは、ごみの量が2割減ればずいぶん燃焼状態も良くなるはずです。適切な燃焼をすることと同時に、ごみをやたらと出さないことが、ダイオキシン問題の根本的な対策だと思います。
 

●塩ビ業界が取るべきふたつの道

 
    塩ビはダイオキシンとの絡みで言えば、確かに都市ごみ焼却における塩素寄与率も大きく、特に不適切な焼却施設では塩素濃度が高いとダイオキシンの量も増えますから、不適切な燃焼という前提に立てば減らすほうがいいということになるでしょう。しかし、十分に燃焼して排ガスの温度管理もきちっとしていれば、塩素の増減がダイオキシン濃度に影響しないということも事実です。
  ここがいつも議論の別れるところで、塩ビ業界の人は「適切な燃焼さえしていれば塩ビがあっても問題はない」と主張するし、塩ビを批判する側は不適切な焼却をしている施設を取り上げて、「塩ビがなくなればダイオキシンはかなり減る」と反論する。私に言わせれば、これはどちらも正しいのであって、どちらを取るかとか、「イエスかノーか」という議論は不毛です。
  私は、これからの塩ビ業界にはふたつの対応の道があると思います。ひとつは適切な焼却が行われるように関係各界に働きかけ、協力していくこと。もうひとつは用途の取り組みを見直すことです。こう言うと業界の人は怒るかもしれませんが、私は塩ビというのは本来は耐久消費材として使われるべきだと思うし、例えば水道管や窓枠といった用途では塩ビのメリットは非常に大きくて他の素材に変え難いけれど、一方塩ビでなくてもいいような製品も多いと考えています。
  それから、耐久消費材といえどもいずれは焼却されることを前提に考えて、生成した塩酸を回収再利用するトータルシステムや、燃やしても塩化水素が出にくいような新しいタイプの塩ビを開発するといった対応も望まれます。ただ、こうした対応は個別企業ではなく業界全体として取り組むことが望ましいことで、一企業が中途半端なお金と人を投資して解決できる問題ではないと思います。
  そういう点について大学の研究者や文科系の有識者も含めて、いろいろな人の話をどんどん聞くことをお勧めします。我々もダイオキシンの除去や発生メカニズムの検討など、都市ごみ、産廃双方について研究していますから、協力できることは多いと思います。
 

●性能と環境負荷を見定めた用途開発

 
    塩ビは低価格だし、燃えにくい、変質しないなど多くの特徴があって、すごくいい材料のひとつだと思いますが、その反面、悪いところも必ず出てきます。例えば、業界が強調する塩ビの経済性、利便性にしても、確かに事実ではありますが、これにはプラス・マイナスの両面が必ずあって、プラス面だけを追いかけるといつか必ずツケが回ってきます。
  この先、ごみ焼却に関して塩化水素の規制が強化されるようなことになれば、その中和処理や汚泥処理、灰の埋立処理などに要する社会的な負担も大きくなるわけで、経済性、利便性を正当に評価するには、社会全体として本当にそれが成り立つのかどうか、LCA的な発想が必要になります。
  これは化学業界全体に言えることですが、やはり性能と環境負荷の両方を見定めて用途を開発するという発想を持ってほしいと思います。
  一方、消費者も用途や廃棄物処理のことまで考えて製品を選ぶことが大切です。ただ、その際に素材の表示がないと何を基準に選択していいのか分かりませんから、業界も素材表示の問題をもう少し本気で考えてほしいと思います。その上で、市民が自ら判断して選択することが社会の正しい在り方だと思います。これは業界にとっては厳しいことかもしれませんが、逆に、そのことで塩ビ本来の特徴が生かせる分野を伸ばしていくことができるという考えを持つべきだと思います。
 
■プロフィール 浦野紘平(うらの こうへい)
 1942年東京生まれ。東京工業大学大学院修了の後、公害資源研究所(現資源環境技術総合研究所)を経て、横浜国立大学工学部教授に(環境安全工学研究室)。工学博士。(社)日本水環境学会副会長、(社)環境科学会理事、(社)日本化学会エコケミストリー研究会代表のほか、環境庁や神奈川県などの環境関係の多数の委員を務める。主な著書に『水質汚濁・土壌汚染』『オゾン層を守る』『地球大気環境問題とその対策』『環境監査実務マニュアル』『みんなの地球』などがある。