2004年3月 No.48
 
着実に浸透する「環境リスク評価」

  化学物質管理はリスク&ベネフィットのバランスから。
  統一的視点に世界が注目

  独立行政法人 産業技術総合研究所
   化学物質リスク管理研究センター長 中西 準子
  横浜国立大学大学院教授

●新刊『演習/環境リスクを計算する』

 
  昨年の暮れ、岩波書店から『演習/環境リスクを計算する』という本を出しました。この本は、環境リスク評価の手順を具体的に示したもので、これを読めば、大学生程度の一般知識がある読者なら誰でも自分で環境リスクを計算できる、ということを目標に編集されています。
 最近は日本社会でも「リスク評価」とか「リスク管理」という言葉が喧伝されるようになってきました。BSEなど食品の安全性に関して使われるようになったことの影響が大きいと思いますが、環境科学の分野でも、ダイオキシンによる健康リスクとか、野生動物の存続リスクといった形で環境リスク評価の手法がしばしば話題になっています。
 しかし、話題になるわりには、具体的にどうやってリスクを評価するのか、あるいは評価した結果をどうリスク管理に生かすのかという肝心なことはあまり知られていない。ただ、言葉だけ飛び交っているのが現実です。環境リスクを算出する方法についての研究報告や出版物も少ないし、現実に計算された数値が議論の対象になることもほとんどありません。
 これに対して、『環境リスクを計算する』では、ダイオキシンやメチル水銀などさまざまな化学物質が人の健康や生態に与えるリスクについて、「こういう手順で計算して、その結果をこう評価する」ということを、13章に分けて具体的に説明しています。
 お蔭様で、出版して間もないのに、各方面からさまざまな反響が寄せられ、刊行後1カ月で重版が決まりました。「環境リスク評価という手法がここまで体系化されたことに驚いた」と言ってくださる方もいますし、自分でも、これまで心血を注いできた仕事の全体像をようやく世の中に出すことができたと思って、深い感慨に浸っているところです。
 

●激しい批判を乗り越えて

 
  感慨深いといえば、もうひとつ、ダイオキシン問題をめぐる最近の論調の変化にも、ある種の感慨を覚えないわけにはいきません。
 かつて、主成分分析という方法を使って、わが国のダイオキシンの主たる発生源が農薬中の不純物であることを突き止め、「日本のダイオキシンのリスクは現状ではさほど大きくはなく、大型焼却炉での処理は必ずしも適当でない」と訴えた時(朝日新聞「論壇/ごみ処理対策の方向を誤るな」1997年10月6日付)、私に対する周囲の反撃は、それはすさまじいものでした。農薬発生源説には農薬メーカーだけでなく学者も市民運動家も激しい反発を示しました。
 その後、「環境ホルモン空騒ぎ」(「新潮45」1998年12月号)を書いた時も厳しい批判に晒されましたが、「リスクの大きさを判断し、バランスのとれた環境対策を立てるべき」という私の主張は、科学的な環境リスク評価に基づいた主張であって、いつかは分かってもらえる時がくると思っていました。
 その結果が今になってようやく出てきたように思います。世論に迎合せずに自分の主張を貫いたことで、「冷静になって考えてみれば、やっぱり中西さんの言うとおりだったのかもしれない」ということが皆に理解されてきたと感じます。
 自慢しているわけではありません。ダイオキシンのリスクを勉強する中で、母乳が胎児の健康に与えるリスクと母乳を止めたときのリスクをどう評価するかといったことを一生懸命研究したことは自分にもプラスになっているし、何より、自分の仕事が大きな社会的な意味を持ったということがうれしいのです。
 そういう意味で、環境リスク評価は私にとってはとても大きな研究だったと思います。そのことと、今度の『環境リスクを計算する』の出版という出来事が重なって、つくづくこの仕事をやってきてよかったなあと感じています。
 

●化学物質のベネフィットを生かす

 
  環境リスクマネジメント評価とは、化学物質による環境への負の影響(リスク)とベネフィット(有用性)を評価し、そのバランスに立って化学物質の管理原則を導くことを目的とする学問です。つまり、リスク評価とは化学物質のリスクを管理するための手法であって、研究をはじめた当初から、私は「結局重要なのはリスク管理であって、化学物質のベネフィットを生かすためのリスク管理手法でなければならない」ということを強く言い続けてきました。
 化学物質にはリスクがあるけれども、一方でベネフィットがあるからこそ使われているわけです。逆に、リスクのほうが大きければ当然使えないし、ベネフィットがあるから敢えてリスクを取るという選択も成り立ちます。こうしたリスクとベネフィットのバランスを解析するには、従来の「安全か危険か」といった発想では対応できません。
 また、ひとつのリスクを削減しても別のリスクが出てくる、いわゆるリスクトレードオフの問題もあります。例えば、最近「鉛を含みません、塩ビ(ポリマー)を使っていません、だから環境にやさしい商品です」といったコマーシャルをよく目にしますが、それがほんとうに環境にやさしいと言えるのか。代替品を使うことで、新しいリスクの方が大きくなるとか、費用がかかりすぎるとか、逆のマイナスが出てくるのではないか。私たちが一生懸命取り組んできたのは、そうしたこともちゃんと比較できるリスク評価、リスク管理の手法を開発するということでした。
 当時、環境リスク評価という学問は外国でも発達していましたが、そういう統一的な視点で取り組んでいるところはほとんどありませんでした。毒性なら毒性、発がんなら発がんというふうに分化していて、各分野の専門家はいるけれども、全体を見る専門家がいない。私たちの場合は、化学物質管理という大きな目標を立てて、人間や生物への影響だけでなく、経済評価も含めたすべての視点からどうしようかと考えるので、視点が大きく統一的にならざるを得ないわけです。
 それで最初はなかなか相手にしてもらえませんでしたが、最近になって欧米でもだんだん私たちの活動が理解されるようになってきました。アメリカのEPA(環境保護局)の関係者の一人も「アメリカでやっている手法では不十分で、ちゃんとしたリスク評価ができない。化学物質管理というテーマを立てればこういう統一的な評価ができるのか」と言っていました。
 総合的な環境リスク評価という手法は、日本から世界に発信できる、数少ない日本独自の環境科学のひとつだと言えるでしょう。
 

●国民のリスク不安にどう向き合うか

 
  ところで、化学物質のリスク評価に関して私が危惧しているのは、科学的に評価されたリスクと一般の人々が考えているリスクとの違い、という問題です。
 現代の社会では、科学的なリスク評価とは別に、化学物質に対して漠然とした不安を感じている人々がたくさんいます。私はこれをリスク不安と呼んでいますが、問題は、その漠たる不安を基に意思決定がされてしまったり、法律や世論ができてしまったりすることがよくあるということです。ひどいときには、その世論が裁判にまで影響を与えてしまうということさえ起こり得ます。その結果、本当はいいものが使えなくなるとしたら、それは国民にとっても、それを研究してきた化学者にとってもたいへん不幸なことです。
 そこで、リスク対策とリスク不安対策というふたつの面からリスク管理を考える必要が出てきます。つまり、実態として存在しそうなリスクをどう管理するかということと、国民のリスク不安にどう対処するかということで、後者については、きちっとしたリスク評価に基づいた情報提供(リスクコミュニケーション)がますます重要になってくると思います。
 リスク評価とかリスクコミュニケーションというと、企業の方はすぐ、リスクがないことを証明しようとか、説得しようとか発想しがちですが、そのために無理にでも安全証明をしなければと考えてデータを操作したりすれば、誰もリスク評価を信用しなくなってしまいますし、リスクコミュニケーションそのものにも疑いを持つようになってしまいます。私はそれを恐れます。
 私が企業にお願いしたいのは、国民のリスク不安を解消するために、正確なリスクのデータを率先して公表し理解を得るという勇気を持ってもらいたい、ということです。そして、「この程度のリスクはあるがベネフィットもこれだけ大きいから十分使っていけますよ」とか、「これを止めると他のリスクが大きくなるからこれで我慢しましょう」という大人の説明がきちんとできるようになってもらいたいと思います。
 リスクコミュニケーションの本当の精神は、誰にも知られていないようなリスクまでも積極的に開示して、化学物質の被害や事故の発生に備えてもらうということです。難しいこととは承知しています。最終的には企業の判断ということになるでしょうが、私はどうやったら人々に理解してもらえるか、どういう形でデータを出していくかということを企業も真剣に検討すべき時期にきていると考えています。
 

●焦らずに、情報を発信し続けること

 
  リスクコミュニケーションに関して、最近よく企業の方などから「どうやったら説得できるのですか」と問われることが多いのですが、私の立場から言えるのは、とにかく焦らずに、きちっと情報発信していく努力を惜しまない、ということです。
 研究の分野で言えば、まず自分の考え方を雑誌でも論文でもきちんと発表しておいて、粘りづよく主張し続けること。その努力があれば、はじめは誰も分かってくれなくとも、何年かすれば間違っていなかったということが必ず理解されるはずです。
 私の場合は、論文の発表や外部のメディアへの投稿のほかに、自分のホームページ(http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/)を利用して、できるだけ自分の考えを持続的に訴えていこうと思っています。
 これも結構骨の折れる作業で、毎週、土曜日曜は原稿づくりにかかりっきりになってしまいます。1回の記事を書くのに50ぐらいの文献に目を通さなければなりません。新聞記事であったり、ほかの人のホームページだったり、正式な研究論文の場合もありますが、ともかくそれだけの情報を取り寄せた上で原稿を書いているわけです。
 そういう努力を続けてきたお陰で、最近は私とは反対の意見を持つ人たちも、何か事があると私のホームページを見てからでないと安心して意見が言えないと言っているそうです。魚の水銀汚染の問題でも、私の発言を確認してから原稿を書いている人がいるということを聞いています。
 つまりは、対立する意見を持つ人からも注目されるような発言力を養うということですが、そういう形を作り上げるには、たゆまぬ努力が必要です。人を説得するための基本的な心構えとして、私にアドバイスできるのはそんなことぐらいです。
 

●5年間で確実に浸透した「環境リスク評価」

 
  この何年かで、環境リスク評価という考え方は確実に浸透してきました。まだ十分とはいえませんが、5年前に比べると隔世の感があります。
 厚生労働省などの行政機関も、「化学物質は単に安全か危険かというだけではなく、リスクとベネフィットのバランスで考えなければいけない」とか、「ある程度のリスクは許容しなければ」といった考え方で、きっちりとリスクマネージメントをやろうという発想になっています。農水省は、昨年有害汚染物質の対策チームを設置し、水銀、カドミウム、ダイオキシン、DON(デオキシニバレノール。麦類のカビ毒の一種)の4つの研究グループを立ち上げて、リスク評価、リスク管理に取り組んでいます。
 ただ、リスク評価というのは、評価項目の中に未来予測など仮定の要素も多く、いろいろと思想的な影響を受けやすい面をもっています。可能な限り中立的な評価であることが望ましいのはもちろんですが、唯一無二のリスク評価ということはあり得ません。
 ですから、できるだけ多くの専門家や機関がこの作業に参加して欲しいと思います。我々のセンターも行政も、あるいは民間のNGOも大学も、価値観の違う人がおおぜい参加して、それぞれの評価結果の違いをすり合わせていく。そして、例え対立する意見があったとしても、こういうデータを積み上げてこういう方法で考えた結果、この結論に達したという議論の中で、手続きが透明になってお互いの対立ポイントが解消するといったことが相当出てくると思います。
 但し、そういう議論をするにしても、前提となる最初の計算式だけは同じでないといけません。これまでは計算式の違うバラバラのデータで議論したり、ひとつのリスク評価で高いデータが出ると、その数値だけで議論するといったことが長い間続いてきました。
 今度の『環境リスクを計算する』という本は、そういう状況を改善するための、議論の共通ツールとして使ってもらいたいと考えています。
 

●願いは、国家プロジェクトの立ち上げ

 
  いまは研究に一区切りがついてほっとしているような状態ですが、将来の抱負ということで言えば、何とかして環境リスク評価とリスク管理研究の国家プロジェクトを立ち上げたいというのが私の目下の目標です。
 それもこのセンターのような何十人単位というレベルでなく、200人、300人という数のスタッフが携わって、化学物質リスク研究10カ年計画とかリスクマネジメント10カ年計画といった形のプロジェクトでなければなりません。そして、やがてはそのプロジェクトが中核となって、行政にも大学にも企業にもリスク研究に取り組む機関が増えていく、あるいは大学教育の中で環境リスク評価という科学が独立した一科目として確立される、というように、質的な変換を遂げなければだめだと思います。
 そうでないと、これだけ膨大な量の化学物質を管理するのは容易なことではありません。私ひとりで頑張ってもたかが知れているのです。
 そのためには、どうしても国家プロジェクトを立ち上げて、いろいろな人の協力を得ながら、マスで変化を起こすような運動にしていくことが必要です。
 それが実現できたときこそ、圧倒的なボリュームの実証的データを基にした、リスク管理政策を日本から世界に向けて発信できるようになるのだと思います。
 

 

■プロフィール 中西 準子(なかにし じゅんこ)
1938年大連市生まれ。1961年横浜国立大学工学部化学工業科卒。1967年東京大学大学院工学系博士課程修了。工学博士。東京大学工学部助手などを経て、1993年東京大学環境安全研究センター教授。1995年横浜国立大学環境科学研究センター教授。同年、フルブライト上級研究員として米国オークリッジ国立研究所に滞在。2001年(独)産業技術総合研究所化学物質リスク管理研究センター長に就任。
化学物質管理のあり方を複眼的に分析する「環境リスク評価」の研究により環境科学の新たな地平を切り開いた。2003年紫綬褒章受章。
主な著書に『環境リスク論』(岩波書店)、『環境リスクマネジメントハンドブック』(朝倉書店)『水の環境戦略』(岩波新書)、『東海道水の旅』(岩波ジュニア新書)など。昨年暮れに出版した『演習/環境リスクを計算する』が話題。
http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/