2011年12月 No.79
 

波乱万丈「ビニール傘」ものがたり

品質と機能性を求め続ける、 オリジネーター・ホワイトローズ(株)の挑戦

 
10代目須藤社長 究極のビニール傘「シンカテール」
 傘製造販売の老舗ホワイトローズ(株)(東京都台東区)は、あのビニール傘を発明した正真正銘のオリジネーター。今回の塩ビ最前線は、同社10代目社長・須藤宰(つかさ)氏に聞く、山あり谷ありのビニール傘物語。

●「傘カバー」から「ビニール傘」へ

大ヒットした傘カバー(部分)

 ホワイトローズの前身は、享保6年(1721年)に創業した煙草商「武田長五郎商店」。以後、300年にもおよぶ同社の歴史は、今風に言えばイノベーションの繰り返し。4代目長五郎のとき、刻み煙草の湿気止めに使う油紙で作った携帯雨合羽が参勤交代の共侍の間で大流行し、それを機に幕府御用達の雨具商へと成長して行くいきさつなど興味津々のエピソードですが、残念ながらスペースの都合で詳細はまたの機会に。
 で、話は一挙に戦後へ。昭和24年、9代目の須藤三男氏(現会長)が4年間のシベリア拘留から帰国して早速家業を再開したものの、世はモノ不足一色の時代、傘の材料はとうに他社が抑えていて手に入らず、何とか新商品をと考えだしたのが、当時はまだ珍しかった塩ビ製の傘カバー。「雨で色落ちしやすかった布傘の補完商品として『傘カバーがないと傘が売れない』というほどの大ヒット」になりますが、ナイロン製傘の登場で色落ちの心配がなくなると人気も急降下。「だったら、ビニール単体で傘を作ればいいじゃないか」と、ついにビニール傘の発想が生まれたのは、昭和20年代末のことでした。

●高級化路線で新たな需要

ファッショナブルなビニール傘
ペンが立っているところが風の抜け穴

 ビニール傘の原型が完成したのは昭和33年。「ところが、完全防水のビニール傘は既存の傘を超える競合商品と見なされて問屋が扱ってくれない。突破口が開けたのは、東京五輪で来日した米国人バイヤーが『雨の多いニューヨークで売れる』と買い付けてくれたことから」
 輸出は急速に拡大し、競合他社も次々に生まれましたが、昭和40年代に入ると、コストの安い台湾での生産が始まって日本の輸出はストップ。以後、生産地は中国へと移り、低価格の傘が日本に逆輸入される時代を迎えることに。
 一方、度重なる逆風にもめげず販路を国内に転じた同社では、はぎ合わせなどの技術を駆使したファッション性の高い非透明ビニール傘を開発し、アパレル製品として人気を博します。さらに、昭和50年代半ば、ある都議会議員から「顔が見える透明で丈夫な傘がほしい」との依頼を受けて試作した選挙用雨傘が、口コミで議員の間に普及。これが現在に続く高級化路線の端緒となり、ついには軽くて強いグラスファイバーの骨、傘が裏返るのを防ぐ、抜け穴(逆支弁構造)などを備えた究極のビニール傘「シンカテール」が誕生。また、昨年秋の園遊会で皇后陛下がこれを使用されたことから開発された女性仕様の「縁結(えんゆう)」も、現在好評販売中。
 「ビニール傘は最も雨に適した製品。安価な輸入品が増えて壊れやすいと思われているが、壊れるのはコストのために骨の品質を落とすから。当社の傘は高価だが、すべて修理できて長く使ってもらえるものばかりだ」
 品質と機能性を求めて、ホワイトローズのビニール傘は今なお進化継続中。